一日一善ならぬ一日一喝&一自信
バ韓国から帰国してからの
日本での新生活をベースにした万事を綴る。
なお韓流の方はご遠慮を。
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高度先進化するのみの医療だと常々思うのだが、
一体その目的は何なのだろうか?とは考えたことがあるだろうか。
高度先進化する医療の目的とは?
先ほどNHKで認知症に関する番組を見ていた。
最近では薬によって症状を抑えたり、果ては改善させたり、
また、なる相当前に予防ができるという。
確かに痴呆症患者を持つ家族にとっては嬉しいことだと思う。
だが、献身的に最後(最期)まで純粋な心で患者に付き合える身内というのは
はたしてどれぐらいいるのだろう。 否、そもそもいるのだろうかと私は問いたい。
症状は一時的に緩和したとしても、完全に健康体に戻るわけではない。
これは何も認知症だけに限ったものではないことは自明だ。
その一時的なある種の快楽のためだけで
永遠と身内という患者に付き合っっていられるだろうか。
正直、無駄な延命技術や延命治療は、
健常者の生活を破壊する以外のナニモノでもないと思う。
こういう言い方をしたら反発があるだろうが、
私は、患者本人以上に健常者の方が大変だと思う。
それも心身共に。 患者はある意味心の方はもはや正常ではなくなっているため
大変だの大変でないだの、という議論は甚だ無駄なものであると思うからだ。
健常者のためにも、あまり高度な先進医療にならないことが
全ての人間の、果ては全ての生命と
その歴史と未来に対する「礼儀」であると私は思っている。
そもそもである。 これまでそういうった薬どころか
治療技術なき時代に生まれ、そして無情にも死んで行った人達は
一体どうなることだろう。 生きたくても生きられず、
死にたくなくても死ぬことしかできず、
そして逝きたくても逝けなかった人たちは一体どうなる?
彼らに対して逆に私は失礼なのではと思う。
異常なまでの延命治療や延命技術が。
この時代、この技術を有する国に生まれたこと自体が
単に偶然なだけにも拘わらず、
それがあたかも当然かのように振る舞う現代人。
まさにこの薬による治療だったり、
高度先進化し過ぎる医療そのものを反映していると
言えないだろうか。
生物は、40億年前に誕生し、
膨大な時間を経て、その時々の環境や状況、
そしてそれらに対する適応意思によってこれだけ多様化し、
そして進化という迷路に於いても迷うことなく
最終的に進化できたものだけが残っているのが
紛れもなくこの「今」だと思う。
進化という迷路に入ったまま抜け出られなくなったモノは
そのまま生命からの滅亡という道を歩み、
また現生人類になるまでの中でも
その迷路の入ったまま出て来なかった、つまり滅びた人類も
間違いなくいたであろう。
また進化の道を辿れたものであっても、
自然淘汰という法則に負け、再び迷路に戻されたものも多くいただろう。
その法則は、何も単に存在するだけの法則だっただけでなく、
その発生理由も存在意義も充分過ぎるほどあるが故に発生した法則なはずだ。
今私達現代人は、その自然淘汰という法則に対して
無謀にも反旗を翻したと言えなくはなかろうか。
無駄に高度で無駄に先進化した医療は、
生命体そのものの歴史に対して果たして必要なもの「だった」のだろうか?
また、人類が生きて行く上で、この高度先進化する医療というのが
果たして絶対条件「だった」のだろうか?
無駄に医療を極めようという道を歩み始めた瞬間に居た人間は、
その瞬間から、生命体の歴史への反逆の歴史を歩み始めたと言えなくはないか。
単に死んで行けというわけではない。
無駄に延命治療をして、それによって健常者の社会が必要以上に壊され、
全ての生命体のこれまでの歴史に対する全否定とも言えるこの行為が
謀反となっているのは一体どういうことだろう。
まずそこに気付くことが必要であろう。
自然淘汰という、生命体がこれまで自然の摂理の一つとして行なって来たものを
人間というたった一種類の生命体だけが、たった短い時間で
それも人間だけの独断と偏見で、破壊し、更には人間だけが
永遠に生命を維持していこうというエゴは、
一体この先何を産めるというのだろう。
それよりも、私は新しく生まれて来る命をより大切に誕生させ、
より良く育み、未来を行き抜ける人類となるべく教育すべきではないかと思うのだ。
未来の開拓者を、現在で育てることこそ
過去と現在の自分を未来に生かせる&活かせる方法ではないだろうか。
自然の摂理である自然淘汰。 意味なくして発生した法則ではない。
過去に於いて、必要であったからこそ、そして発生の意義があったからこそ
発生して来たものなのである。 それを「今生きている人間」だけで
勝手に全ての生命体の法則を破壊するのは如何なものかと思わずにはいられない。
自然の摂理に逆らうことこそ、人間、ひいては生命体全ての存在を消す
唯一無二の道であるということに、果たして人間はいつ気付けるのか。
高度過ぎることも先進過ぎることもよろしくない。
人類「適度」を忘れたら最後だろう。
長く生きることが一体どういうことなのか?
何をもたらすのか? 何をもたらせると言うのか?
健常者ですら満足に示せないものを、況や…。
人間は、健康で居られる時だけが唯一
人間たらしくいられる瞬間だと、思わずにはいられない。
死の後に何が残り、何がなくなり、何がどうなるのか。
人間の存在や人間が身に付けた技術なんて、
宇宙の始まりから見たら所詮大したものではないだろうに…。
だとしたら、やはり生まれ出る瞬間を大事にしては如何だろうか。
命だけではない。 考え、意見、気持ち、価値観など
生まれるものなら色々と言えるではないか。
何事も、生まれる瞬間を大切に。
そしてそれを少しでも育み上げる。
いずれにせよ、自分の死の瞬間、
それらも自分と一緒に消えていくものが大半なのだから…。
命に無駄にしがみ付いている人たちにだけ告ぐ。
何のために高度先進医療なる、
生命への謀反に甘んじて生き延びようとするのか。
全生命が納得する理由を述べられた時にのみ
それは実現するだろう。
生きるのに理由なぞナイと言うのであれば、
では死ぬに理由もないということだ。 そうだろう?
ただ、理由なき存在した生命が
これまで一体どういう運命を辿ったのか今一度学び直すが良い。
滅亡と言う名の迷路。 退化と言う名の迷路。
いずれかで彷徨って、そのままそれぞれの迷路から
抜け出せなかったということを、私からまず教えてあげよう。
生きたくても死ななければならない人。
死にたくなくても死ねない人、死んではいけない人。
生きていてはいけないのに生きている人。
死にたくなくても死ななければならない人。
生きるべくして生きている人。
死ぬるべくして死ぬる人。
死ぬるべくして死ななければならない人。
色々な人がいるのだということを、
私たちはまず知らなければならない。
生きるのに理由なぞ不要だと言うのならば
死なない理由なんぞも当然ない、と私は教えてあげよう。
これで勇気が持てるはず。
生きることにも、死ぬることにも。
一体その目的は何なのだろうか?とは考えたことがあるだろうか。
高度先進化する医療の目的とは?
先ほどNHKで認知症に関する番組を見ていた。
最近では薬によって症状を抑えたり、果ては改善させたり、
また、なる相当前に予防ができるという。
確かに痴呆症患者を持つ家族にとっては嬉しいことだと思う。
だが、献身的に最後(最期)まで純粋な心で患者に付き合える身内というのは
はたしてどれぐらいいるのだろう。 否、そもそもいるのだろうかと私は問いたい。
症状は一時的に緩和したとしても、完全に健康体に戻るわけではない。
これは何も認知症だけに限ったものではないことは自明だ。
その一時的なある種の快楽のためだけで
永遠と身内という患者に付き合っっていられるだろうか。
正直、無駄な延命技術や延命治療は、
健常者の生活を破壊する以外のナニモノでもないと思う。
こういう言い方をしたら反発があるだろうが、
私は、患者本人以上に健常者の方が大変だと思う。
それも心身共に。 患者はある意味心の方はもはや正常ではなくなっているため
大変だの大変でないだの、という議論は甚だ無駄なものであると思うからだ。
健常者のためにも、あまり高度な先進医療にならないことが
全ての人間の、果ては全ての生命と
その歴史と未来に対する「礼儀」であると私は思っている。
そもそもである。 これまでそういうった薬どころか
治療技術なき時代に生まれ、そして無情にも死んで行った人達は
一体どうなることだろう。 生きたくても生きられず、
死にたくなくても死ぬことしかできず、
そして逝きたくても逝けなかった人たちは一体どうなる?
彼らに対して逆に私は失礼なのではと思う。
異常なまでの延命治療や延命技術が。
この時代、この技術を有する国に生まれたこと自体が
単に偶然なだけにも拘わらず、
それがあたかも当然かのように振る舞う現代人。
まさにこの薬による治療だったり、
高度先進化し過ぎる医療そのものを反映していると
言えないだろうか。
生物は、40億年前に誕生し、
膨大な時間を経て、その時々の環境や状況、
そしてそれらに対する適応意思によってこれだけ多様化し、
そして進化という迷路に於いても迷うことなく
最終的に進化できたものだけが残っているのが
紛れもなくこの「今」だと思う。
進化という迷路に入ったまま抜け出られなくなったモノは
そのまま生命からの滅亡という道を歩み、
また現生人類になるまでの中でも
その迷路の入ったまま出て来なかった、つまり滅びた人類も
間違いなくいたであろう。
また進化の道を辿れたものであっても、
自然淘汰という法則に負け、再び迷路に戻されたものも多くいただろう。
その法則は、何も単に存在するだけの法則だっただけでなく、
その発生理由も存在意義も充分過ぎるほどあるが故に発生した法則なはずだ。
今私達現代人は、その自然淘汰という法則に対して
無謀にも反旗を翻したと言えなくはなかろうか。
無駄に高度で無駄に先進化した医療は、
生命体そのものの歴史に対して果たして必要なもの「だった」のだろうか?
また、人類が生きて行く上で、この高度先進化する医療というのが
果たして絶対条件「だった」のだろうか?
無駄に医療を極めようという道を歩み始めた瞬間に居た人間は、
その瞬間から、生命体の歴史への反逆の歴史を歩み始めたと言えなくはないか。
単に死んで行けというわけではない。
無駄に延命治療をして、それによって健常者の社会が必要以上に壊され、
全ての生命体のこれまでの歴史に対する全否定とも言えるこの行為が
謀反となっているのは一体どういうことだろう。
まずそこに気付くことが必要であろう。
自然淘汰という、生命体がこれまで自然の摂理の一つとして行なって来たものを
人間というたった一種類の生命体だけが、たった短い時間で
それも人間だけの独断と偏見で、破壊し、更には人間だけが
永遠に生命を維持していこうというエゴは、
一体この先何を産めるというのだろう。
それよりも、私は新しく生まれて来る命をより大切に誕生させ、
より良く育み、未来を行き抜ける人類となるべく教育すべきではないかと思うのだ。
未来の開拓者を、現在で育てることこそ
過去と現在の自分を未来に生かせる&活かせる方法ではないだろうか。
自然の摂理である自然淘汰。 意味なくして発生した法則ではない。
過去に於いて、必要であったからこそ、そして発生の意義があったからこそ
発生して来たものなのである。 それを「今生きている人間」だけで
勝手に全ての生命体の法則を破壊するのは如何なものかと思わずにはいられない。
自然の摂理に逆らうことこそ、人間、ひいては生命体全ての存在を消す
唯一無二の道であるということに、果たして人間はいつ気付けるのか。
高度過ぎることも先進過ぎることもよろしくない。
人類「適度」を忘れたら最後だろう。
長く生きることが一体どういうことなのか?
何をもたらすのか? 何をもたらせると言うのか?
健常者ですら満足に示せないものを、況や…。
人間は、健康で居られる時だけが唯一
人間たらしくいられる瞬間だと、思わずにはいられない。
死の後に何が残り、何がなくなり、何がどうなるのか。
人間の存在や人間が身に付けた技術なんて、
宇宙の始まりから見たら所詮大したものではないだろうに…。
だとしたら、やはり生まれ出る瞬間を大事にしては如何だろうか。
命だけではない。 考え、意見、気持ち、価値観など
生まれるものなら色々と言えるではないか。
何事も、生まれる瞬間を大切に。
そしてそれを少しでも育み上げる。
いずれにせよ、自分の死の瞬間、
それらも自分と一緒に消えていくものが大半なのだから…。
命に無駄にしがみ付いている人たちにだけ告ぐ。
何のために高度先進医療なる、
生命への謀反に甘んじて生き延びようとするのか。
全生命が納得する理由を述べられた時にのみ
それは実現するだろう。
生きるのに理由なぞナイと言うのであれば、
では死ぬに理由もないということだ。 そうだろう?
ただ、理由なき存在した生命が
これまで一体どういう運命を辿ったのか今一度学び直すが良い。
滅亡と言う名の迷路。 退化と言う名の迷路。
いずれかで彷徨って、そのままそれぞれの迷路から
抜け出せなかったということを、私からまず教えてあげよう。
生きたくても死ななければならない人。
死にたくなくても死ねない人、死んではいけない人。
生きていてはいけないのに生きている人。
死にたくなくても死ななければならない人。
生きるべくして生きている人。
死ぬるべくして死ぬる人。
死ぬるべくして死ななければならない人。
色々な人がいるのだということを、
私たちはまず知らなければならない。
生きるのに理由なぞ不要だと言うのならば
死なない理由なんぞも当然ない、と私は教えてあげよう。
これで勇気が持てるはず。
生きることにも、死ぬることにも。
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