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韓国語の家庭教師の件。
約2ヵ月が経とうとしているが、ココに来て問題が生じた。
いや、実はウスウスは気付いてはいたが(ォィw)
私のやっていることが「激しく難しい」らしいのだ。
詳細を書いていると非常に長くなってしまうので
勝手に割愛させていただくが、
ここでは結論及びそれに対する所感を述べさせていただく。
勉強を見ている方には申し訳ないが、
何せココは「自分のための」スペースなんでねw
(と言いつつも必要な経過部分は書きます。)
彼女曰く「難しくて分からなくて、覚えられない」そうなのだが、
それには2つの対象先がある。
①現在通っているカルチャーセンターでの内容に対して
②私の教えていることが高度であることに対して
確かに②は言えていると思う(失礼w)。
かなり専門的な内容やツール(言語学だったり)を
使って説明や教授しているから。
この部分は事実だから否定はしない。
ただ、専門的な内容ほど基本の基本、根本を突いているから
私はそれを引用して来ているのであって、
理由なくしてやっているわけではないことは
主張して良い箇所だと私は思う。
ただ、①に対してはこう言えよう。
カルチャーセンターでのテキストを見たところ、特段難しいものではない。
それまでの課で出て来た内容で理解ができる。
(そもそも、テキストと名を打って売っているものなのだから
そんなことは当たり前で、「教科書」としての前提なのだが…)
で、彼女の言う「分からない」という原因はどこにあるのかと言えば
私の感じる限り、基礎が分かっていない所にある。
基礎が分からない
||
理解できていない
||
もう一度戻って学び、そして習得する必要がある
ということなのだが、残念ながらそれに気付いていない。
この、「気付かない」ということもまた人間の性の一つかもしれないが、
その基礎をやるべく、私はかなり戻った内容を
それも毎度特製の使用を持参して手ほどきしているわけだ。
その辺の重要性を理解するには、
やはりそれ相応のレベルに達してこそだと思うが
できる限りそこを、早い段階で気付いて欲しいというのが
外国語を教える側の意見でもある。
ここで一つ。
理解することは大抵の人はできる行為である。
が、外国語で必要かつ重要になって来るのは
そこから先にある「習得」なのだ。
理解していても習得できていなければ、
所詮外国語は使えてるとは言えないし、
「外国語ができる」と言われても
そんなものは本人の思い込み、幻覚でしかない。
厳しいことを言うようだが、「語学で食べる」というのは
そんな簡単にできることではない。
「語学で食べ」なくとも、「語学ができる」ことは
そんなに簡単に到達できるレベルではない。
それ相応の努力と時間と費用と、そして習得能力が必要だと
私は切に思う。
そして
知る
分かる
理解する
これら3つの似た意味の言葉が存在する理由とその意義もまた、
この「外国語ができるということ」に通づるものがあると思う。
これに関してはここでは言及しないが、
表現が異なる言葉というものは、今は消え去っていたとしても
そもそもルーツも存在理由も存在意義もまた異なるから発生して来たものなので、
そういうことも含めて異なる表現・言葉は使う方が良いということで一旦締めておく。
閑話休題。
基礎の重要性を説かずにはいられない。
基礎がなければ、上には絶対何も建てられないのだから。
もっと簡単に言えば、「家を建てること」と同じである。
ロクでもない土地、ロクでもない材料、ロクでもない技術で始めようとしても
例えそれが出来上がったとしても、それは見かけだけであって
本当の意味での「建てた」ではない、そうは言えない。
それこそ貧ぼっちゃまの家だ(笑)
土地の開墾から丁寧に行ない、普通以上の材料と
普通以上の技術があれば、普通以上のものができあがるというわけだ。
(簡単に言っているが、そこに付随して努力と習得とが必要となる。)
カルチャーセンターに通う他の受講生たちはこんな話をしていると言う。
「今やっている内容は難しくて分からない。
だが、文字からまた戻って勉強はしたくない。」
なんという我儘なっ!!! 基礎を軽く見た発言は断じて許せない。
「文字からまた戻って勉強したくない」と言うからには
文字は完璧に読み書きでき、発音も正確にできるのだろうな?
と私はそいつらに問い正したい。
それらができているのだったら、テキストに発音をカタカナで書いたり
毎回進んで行く内容を「難しくて分からない」などとは言わないはず。
ドンドン理解して行っているはずだ。
韓国語を聞いて間違いなく書き取って書けているはず。
「戻って勉強したくない」なんて贅沢極まりないのだ。
戻って勉強したくてもできないことの方がほとんどなのに、
それを一撃で片付けるという…。
戻るからには理由がある。
万物に於いて理由なきものはない。
自分の経験から、
内容がどんなに進んでも、分からずに躓くところは
過去に疎かにして来た部分でしかない。
この文法が分からなければ、この活用を知っていないといけない。
この活用を知るには、この単語の分類を確認しないといけない。
分類を確認で来たら、その分類が
どういう文法規範を持っているかを知らなければならない。
こうして辿ることだけが、上級内容を理解して行く上での
ポイントであることを、一刻も早く気付ければ
外国語を理解、習得することが少しスムーズになるというわけだ。
また、まるで覚えられないことが私のせいであるような
そんな発言、そんな態度にはホトホト呆れる。
(私に外国語を教えて欲しいと言って来た方々から)
こんな想いは今まで何度もさせられて来たが、
外国語を本当の意味で習得することはそんな簡単なことではない。
簡単にできるのであれば、通訳や翻訳家などという職業は発生しなかっただろうし、
その前にその発生の必要性すら生じなかっただろう。
だが、それら言語を操り金銭を得る職業が実在するというところに、
外国語習得の容易さを否定するに値するものが在るだろう。
「単語や文法が覚えられる」ということは
「革新的なことでもなければ、技術でもない」。
覚え方こそ人それぞれ。 そして覚える量も人それぞれ。
また覚える範疇もまた人それぞれ。
それを、「この人から教えて貰えば覚えられる」だとか言うのは
教えて貰う人をロボットぐらいにしか認識していないと思わずにはいられない発想だ。
まさかとは思うが、「覚えること=忘れないことである」という
誤解とも幻想とも思えるものを、案外抱いているかもしれない。
「覚える」という行為と「忘れない」という状態は表裏一体であるのに…。
そもそも、そんな、「この人から教えて貰えば覚えられる」というのは
個人による勝手な思い込みによる幻想そして幻覚に過ぎない。
だとしたら、人類はもっと画一的な脳になっているはずで
「多様性」などという言葉も存在できなかったであろう。
発生はしても、淘汰されていたであろう。
確かに覚える「コツ」はあると思う。 が、覚えることが技術でもなければ、
覚えることによって万物が破滅するなどというようなことは
到底あり得ないということは理解できるだろう。
覚えることほど、地道な努力なものはないと思う。
そして個人の努力でしかできないことだ。
ただ、覚えることはあくまで通過点に過ぎず、
そこから先にある「習得」という段階にこそ注視すべきではなかろうか。
面倒くさがらずに覚えるという行為を実行し、
その行為を継続することで、最終的に習得に至れるようにすること。
習得への道で手助けすることは可能である。
それに対しては私も全力でお手伝いしたいと思う。
だが、「覚える能力をくれ」という神がかり的な発想で
私に対して来るのは甚だ間違った行為であり、
そんな能力を持てる人類は後にも先にも存在できないと思う。
それこそ現在の世界に少数で存在している
記憶に関する脳障害を持った方々にでもお願いすると良い。
彼らは彼らなりの悩みなり苦しみを持ってして
この世を生きているのだから、
そこも含めてお願いできる人がいたら
私はそんな人に是非会ってみたい。
未だに私自身も初めて着手する外国語では
特に文字から学ぶ必要があるものは時間を要しもすれば、
文字自体は自分でしか覚えれられないので
コツコツとやっていることを最後に付記しておく。
誰でも最初は同じ場所に立っている(大概は)。
スタートダッシュが速いか否か、
途中加速が上手くできるか否かは個人に因る。
技術で解消できるところは真似て大いに結構。
しかし技術による解消どころか、
そもそも技術ではない部分を真似るためには
地道な個人による作業だけが、唯一の解消手段ではないかと
という想いに至った今日一日だった。